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欧州1940?1941 決戦

イギリス首相ネヴィル・V・チェンバレンの手記:

我がイギリス政府はイギリス・フランス・スペイン・ユーゴスラビア・トルコという対ドイツ包囲網を完成させるため、ポーランドの首脳陣と会談を重ねた。ポーランドは当初ドイツとの講和条約の為に乗り気ではなかったが、我々の熱意に打たれたのか、失ったダンツィヒの奪還のためか、連合国に加入に同意した。




そして満を持して我々連合国はドイツに宣戦布告を行う。
ドイツの周りは全て敵。イタリアは日和見を決め込んでいた。

熾烈な四正面作戦はまずバルカン半島で両軍が激突した。
強力なドイツとハンガリー軍は自慢の機甲師団で南下。ブルガリア軍が後背を脅かす。ユーゴスラビアを戦場に、迎え撃つ英土ユーゴ軍。六カ国の乱戦は当初英・ユーゴ軍が敗退に敗退を重ね、南部まで追い詰められるが、士気の高さで肉弾攻撃を行う勇猛なトルコ軍がブルガリアを壊滅、ユーゴの援護に駆けつけてくれる。

時を同じくしてイベリア半島ではポルトガルとスペインの戦線が開かれていた。一時期スペインは大きく押されてはいたが、総兵力で勝るスペインに敗北は無いと判断。マヌエル議長に戦線の全てを任せた。

北海では世界最強の我が海軍とドイツの潜水艦の群れが激突。
ドイツの潜水艦は優秀な兵器であり、前大戦でも我が軍を恐怖に陥れた。しかし我々はその反省を生かし、当初から対潜水艦用艦船である駆逐艦を開発、生産していた。実戦に間に合ったのは10隻程度ではあるが、小回りが利くこの艦隊は終戦時までドイツを悩ませ続けた。

英独は空でも死闘を繰り広げたが、ドイツ軍は陸軍を主軸に据えていたゆえか、空軍に関しては防空を命じるのみ。我々の戦術爆撃機はそれを掻い潜り、ドイツ各地の飛行場を破壊して回る。どれほどの効果があったかはわからないが…

戦線のバランスが崩れたのは独仏のマジノ戦線だった。
ポルトガル軍を駆逐したスペイン軍がフランスの指揮下に入り、ドイツ領に侵攻を開始。ユーゴ戦線もそれに呼応して北上を始めた。
南北から挟み撃ちになることを恐れたドイツ軍は国内に撤退を開始。ユーゴは元の版図の回復に成功した。

劣勢になったドイツ軍は死期回生の奇襲作戦を行う。
ブリテン島の中腹部に精鋭の機甲師団での強襲上陸をかけたのだ。
他の戦線に気を取られて本国の守りがおろそかになっていた我々だが、守備隊の危機を知るやすぐに大艦隊を派遣。ドイツ精鋭は海の藻屑と化した。

ドイツの強襲上陸艦隊に十分な護衛艦隊が随伴していなかったのを受けて、我が艦隊は北海からバルト海に侵入。抵抗は無く、やはりドイツ海軍は無力化していた。我々はバルト海の沿岸、東プロイセンのケーニヒスブルグに強襲上陸をかける。輸送艦隊により20個師団の陸軍部隊を上陸させ、健闘していたポーランド軍と共にもうひとつの戦線を構築する。
ダンツィヒを巡って一進一退の攻防が繰り広げられるが、そうしている間にも他の戦線は動き、フランス・トルコ連合部隊によりハンガリーが滅亡する。

勝利を確信した私はベルリンに空襲を仕掛けて軍事施設やインフラをずたずたにしつつ、降伏勧告を行う。
ヒトラーは降伏を拒絶したものの、諸国連合80個師団による総攻撃により、ついにベルリンは陥落した。




1941年3月。我々はヒトラーの後任であるドイツ総統カール・デーニッツとの和平会談を行った。
これで平和が戻ればよいのだが、欧州大戦に参加せずに虎視眈々と軍備拡張を行っているソビエトや、極東では国民党と泥沼の戦いを繰り広げる日本。そして不気味な沈黙を守るイタリア…。まだ私の役目は終わりそうに無い。
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S(少し)F(不思議)大戦-後編-

あっけなく終戦です。イタリアは、敗戦国とはなりませんでした。もちろん日本も……。
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